きょうかいせん

野生動物に関わるニュースを観ていて、例えば人間が山の中で熊に襲われた事件なんかだと、「熊のテリトリーに入った人間の方が悪い」とか「山は熊の住処なのだから自業自得」、というような意見を持っている人が一定数いるようだ。ネットニュースなどに付けられるコメントではこれらが大多数を占める。

私も、山に入るということには熊に限らず様々なリスクがあって、どんな理由があって山に入るとしても、そのリスクを負う覚悟が必要だとは思うが、被害に遭った人が他人から責められたり、馬鹿にされたりするのは間違っていると思う。

前述のようなコメントをする人に悪意があるとは思わないが、私に言わせれば、ナチュラリストを気取った無知な発言である。

まずはっきり言えるのは、熊にしろ猪にしろ、奴等の生息域に明確な境界線など存在しない、ということ。都市部に住んでいる人にはイメージが無いのかも知れないが、ここから先は山で熊が出るから危険、ここより手前は人間の住処で100%安全、などという状況は存在しない。動物園のように堀や鉄柵で動物と人が分けられている様を想定して、山と村との関係を語られてはたまったものではない。

次に、考えてみて欲しいが、もし「この辺りより奥だとクマが結構出るけど、これより手前では滅多に出ない」という情報があったとして、その情報はどうやって得られたのだろうか。クマの全個体にGPS発信機が付いているとか、山間にクマなく監視カメラが設置されているわけでないのは小学生でも分かると思う。これは山に入る人間が、クマの姿なり痕跡なりを確認しているからに他ならない。動物の個体数や行動範囲は常に変化しているので、山に入る人が居続けなければ、危険性の高さを評価するための情報は得られない。

加えて、山は動物が棲息するための場所、という認識がそもそも正しくない (全ての人が納得するわけではない)。日本において森林の約4割は植林地と言われている。植林地とはつまり人間が生産活動を行う場である。残りの天然林でも、薪炭利用こそ少なくなったが、きのこ類の栽培などに森林が利用されている。人が住んでいる集落の周りにある山林は、ほぼ人間の手が入っていると言っても過言ではない。タケノコ、山菜、きのこ類は、都市部に住んでいる人間が考えている以上に、重要な山の産物である。

人間の居住区に近い山林で、人間が生産・採集を行い続けるためには、山に入り続けることが必要である。動物たちとの戦線を押し上げて行かないと、逆に山林に隣接する畑や市街地まで、動物たちが攻め上って来てしまう。この前線付近では、人間と動物の衝突がこれからも続くだろう。人間が山に入る必要があり、実際にそうする以上、この戦いは避けて通れない。意識のあるなしに関わらず、人間の活動範囲を守るため、前線で戦っている人々に対し、私は感謝したい。

私は罠猟師であるが、自分が罠を仕掛けているエリアが猪や鹿との最前線で、すぐ後ろには集落と田畑、という場所もある。こういった場所では、たとえ動物が罠にかからなくても、見廻りのため定期的に山へ入ることは、前線の押し上げに効果があると考えている。

しゅりょうにく

狩猟で得た肉の価値に関する基本的な考え方について書きたいと思う。

狩猟者でない人に、私が狩猟を行っていることを話すと、多くの場合、これまでにシカやイノシシの肉を食べたことがあるかないか、そして食べたことがある人であれば、それが美味しかったか不味かったか、という話になる。食べた経験のある人の中には、シカやイノシシの肉に対して好意的な感想を持っている人もいるが、「食べたことあるけど臭くてダメ」とか「癖が強くて食べられたものじゃない」といったことを言う人の方が過半数である (特にイノシシ肉について)。そういった否定的な意見を持つ人たちに私がまず言うのは、狩猟で得た肉の味にはバラツキが大きいということである。

ウシは乳牛と肉牛がいてややこしくなるので、ブタとイノシシの比較で話を進めていこう。

牛・豚の基礎知識 -牛・豚の出荷 – [1]

[1]によると、肉として出荷されるブタは、生後180-190日で屠場へ連れて行かれる。つまり、私達が食べている豚肉の殆どは、生後半年前後の個体である。一方、野生イノシシの捕獲時 (=肉となる時)における齢はバラバラである。その年に生まれたばかりで体重10kg以下の0歳個体もいれば、5歳以上で体重100kg以上の個体もいる。年齢、体重にこれだけの差異があれば、肉の質 (=味)にも差があるのは当然である。一般には若い個体ほど肉が柔らかく臭みも少ないとされている。

また野生イノシシには捕獲時の季節による差異も生じる。飼育されたブタは生育段階に応じて決まった餌が十分に与えられるため、出荷される季節による品質の変動が低く抑えられているが、野外では季節ごとに餌の種類や量が大きく変わるため、イノシシの肉質は季節による変動が大きい。一般には、冬季に捕獲されたものが脂肪が豊富で臭みも少ないとされている。

さらに肉の質に大きな影響を与えるものとして、捕獲方法や捕獲後の処理方法、そして保存方法が挙げられる。狩猟においては、血抜きや解体の手法が統一されておらず、その場の状況においても変化することがある。適切に血抜きされていない肉は、美味しく食べるのが難しくなる。一方の豚肉は、と畜場でマニュアル化された手法により処理・管理されるため、安定した品質を保つことができている。

加えて、これは野生イノシシもブタも同一であるが、肉には部位によって性質が大きく異なる。一概にどの部位が美味しいということはできないが、少なくとも脂肪の割合や肉の固さには、部位によって一定の傾向がある。

以上のように、野生イノシシの肉は、年齢・季節・捕獲や処理の方法が様々であることから、飼育されたブタに比べて肉の質に大きなバラツキがある。また単に「イノシシ肉」と言った場合には、ブタやウシ等の畜産動物と同じく、肉の部位による差異を無視していないか考慮する必要がある。よって、過去にイノシシの肉を食べて「不味い」という感想を持ったからといって、「全てのイノシシ肉は不味い」と結論付けるのは適切ではない。とはいえ、適切に処理したところで(少なくとも私の意見では)不味い個体は確かにあるし、処理が適切でない肉を手に入れてしまう場合も往々にしてあるので、品質の不明なイノシシ肉には手を出さず、より品質が安定した豚肉を食べるという判断は間違っていない。

書く気が起きたら、この続きとして、そもそも肉の味における癖や臭みとはなんなのか、について私の意見を書きたい。

狩猟で得た肉に価値があるのかどうか、というのは狩猟者にとって非常に重要な問題である。もしも「シカやイノシシの肉は不味くて食えたものではない」、あるいはそこまでいかずとも、「牛や豚を食べたほうがずっとマシで、コストを鑑みれば狩猟をして肉を得る意味など全くない」という意見が一般的となってしまえば、「狩猟者というのは動物を殺すことに楽しみを覚える野蛮人である」といった中傷がまかり通ることになるからだ。

きけいがだいすき

稀有で神々しい金色イノシシは射殺される: 新・新・優しい雷(復刻あり) – [1]
何のために・・4本角鹿射殺: 新・新・優しい雷(復刻あり) – [2]

 どうやら上記Blogの著者であるyutan氏は、動物の突然変異に対し愛着があるらしい。[1]では毛が金色のニホンイノシシ、[2]では4本の角があるニホンジカをそれぞれ狩猟で殺したことに対し、それぞれこう書いている。

[1]
いったい、彼らに自然を畏怖し感謝する心があるのでしょうか?いや、愚問でしたね。世にも稀な金色イノシシを撃ち殺す神経は所詮は娯楽で殺生を楽しむ方々のそれだと思います。

[2]
「初めて見た」と驚くぐらいなら最初から殺さないとの選択肢はなかったのでしょうか?

 残念ながら[1]の方は、元の記事ページで写真が現在見れないようなので、どれくらい金色だったのか不明であるが、[2]については、

シカに4本の角 田辺で捕獲 – AGARA紀伊民報 – [3]

で今のところ閲覧が可能である。

 さて、冒頭にリンクを張った記事におけるyutan氏のコメントは、私からすれば呆れてものが言えないという感じである。これについて論じる前に、まずニホンジカとイノシシの個体数推定に関して、よく使われる資料を挙げておこう。

統計処理による鳥獣の個体数推定について – 環境省自然環境局 – [4] (PDF形式)

 この[4]によれば、(個体数推定には色々な問題があるだろうが)本州におけるニホンジカの生息数は2011年度で261万頭 (155-549万頭が90%信頼区間)と推定されている。そして捕獲数は27万頭 (これは申請された捕獲数なので、密猟が多くなければ概ね正しい数値のはず)である。ということは、生息個体数の概ね10% (90%信頼区間で考えれば5%~17%)が、人間の手によって捕獲されていることになる。イノシシに至っては約44%だ。この捕獲圧は決して低いものではない。

 ここで、[1][2]で紹介されている様な表現型の個体がどういった頻度で発生するのか、またその形質が遺伝的なものであるか否か、ということについては情報が無いのであるが、もし遺伝的なものであると仮定すると(遺伝的でないなら、それこそ自然界に残しておく価値は無い)、全国のハンターがそれら稀な表現型の個体を捕獲しないという取り決めを設けた場合、世代を重ねる毎にその表現型を持った個体の割合が増えることが予想される (もっとも、これは多くの仮定を踏まえた場合の話であり、例えばそれらの形質が個体の適応度にマイナスの影響を与えている場合はその限りではない)。

 つまり何が言いたいかというと、稀な形質の個体だからといって殺さないという判断をすることは、野性の個体群に対し人為選択をかけるという行為に他ならない、ということである。

 ……などと書いてしまうと、そもそも狩猟鳥獣と非狩猟鳥獣を定め、さらに各ハンターが特定の獲物を狙って特定の方法により狩猟をすることは人為選択でないのか、という話になるが、「それはそれ、これはこれ」である。自然界の資源を活用する、あるいは害獣の被害を軽減するという目的において、現行の制度は妥当であると私は思う。

 まぁそもそも、[1]と[2]の記事を書いているyutan氏には、私が書いた遺伝に関することなどは理解できないかあるいは理解したくもない話であって、ただ単に珍しい表現型に「神々し(さ)」([1]より)を感じただけであろうと思う。しかし、ハンターであろうとなかろうと、特定の表現型程度に対して崇敬の念を抱くのは勝手であるが、だからといってその個体を捕獲することを批難するとは、それこそ勝手な行為である。もし、なるべく人間の手が入らない”自然”を至高のものと考えるのであれば、狩猟においても捕獲対象の遺伝型に偏りが出ないことが望ましいのであり、yutan氏が主張するような「自然を畏怖し感謝する心」([1]より)はまやかしであるとしか言いようがない。