どうぶつあいご

動物愛護に関する私の考えを書きたいと思う。

まず前提として、狩猟鳥獣である野生のシカやイノシシは、動物愛護法 (正式には動物の愛護及び管理に関する法律)の第四十四条 4で定められている愛護動物に該当しないので、どんな殺し方をしても、この法に触れるということは無い。狩猟に関するウェブサイトを見ていると、特定の方法 (鈍器で殴る等)で狩猟鳥獣を殺すことが動物愛護法に触れる可能性がある、などと書かれていることがあるが、間違いである。

殴り殺す、生きたまま皮を剥ぐ、水に浸けて溺死させる、餓死させる、といった処理は残酷な方法として槍玉に挙がることがあるが、いずれも狩猟鳥獣に対しては (捕獲の許可を持っていれば)合法的に行える行為である。

私がこれまで狩猟中に行ってきたことで、動物愛護の観点から批判を受けそうな行為の中には、「金槌や鉄棒で獲物の頭を何度も殴る」、「獲物がまだ息をしている段階で抜歯 (捕獲報告に必要)や肉の切り取りを行う」、「捕獲された獲物を放置して死亡に至る」といったものがあるが、いずれも問題ないと考えており、今後も必要があれば同じことをするつもりである。これらの行為にはいずれも合理的な理由があるからだ。「金槌や鉄棒で獲物の頭を何度も殴る」のは、銃が使えない場所で動物の動きを弱めるのに必要であるし、「獲物がまだ息をしている段階で抜歯や肉の切り取りを行う」のは、処理にかかる時間を短縮するためである。「捕獲された獲物を放置して死亡に至る」のは、その時の時刻や天候によって安全に処理を行うのが難しい場合である。

私が狩猟を行うのは、動物の肉・骨・角・皮などを採取するためであり、そういった目的のために動物が死ぬという結果が同じならば、その過程で動物がいかに苦しむかということは、私にとってあまり重要な問題ではない。動物がいかに苦痛を感じようとも、私にとって都合の良い処理方法であれば、それを採用する。

とは言っても、私は愛護動物に限らず、動物を「みだりに殺し、又は傷つけ(る)」(第四十四条 1より)ことは避けるべきだと思っている。ただし、それは動物のためではなく、人間のためである。私は動物を殺すことに対して殆ど苦痛を感じないが、同時に、殺すことで快感を得ることもない。しかしながら、人によっては動物を殺すことである種の興奮や快感を覚える場合があり、そういった人々が動物を「みだりに殺し、または傷つけ(る)」行為が社会の中で表面化してくると、動物を殺すことに対して嫌悪感を感じる人々に精神的苦痛を与えることになる。場合によっては、動物を殺傷する行為がエスカレートして、他人の身体に害を及ぼす行為に至る可能性も考えられる。

ある種の職業では、その職種に必要不可欠な行為・環境に対する耐性が求められると言われている。簡単な例を挙げると、いわゆる単純作業に対して、ストレスを感じやすい人と感じにくい人がいるようである。あるいは、一人で作業するのが精神的に楽だと感じる人と、一人では孤独で不安になるという人がいる。このような適性の違いについて言うと、私は自分自身について、動物の生命を扱うことに対する耐性が高い人間だ、と考えている。現代日本において多くの人は私のような耐性を持っていないので、動物を愛護することで精神的安定を享受するのが良いと思うが、私は今のところ動物の生命を奪うことに対する耐性を維持しており、狩猟によって苦痛を感じたり不適切な快感を感じることもないので、法律に違反しない範囲であれば、他の人たちと同じ基準で動物愛護をする必要はないと考えている。

ここまでの文章を無理矢理まとめると、まず、動物愛護は動物のために行うというよりは、むしろ人間社会のために行う必要がある。そして、動物の生命を扱うことにより精神的な害を受けるリスクの少ない人間は、他の人に与える精神的苦痛に配慮しつつも動物の苦痛に配慮する必要はない。……というのが私の考えである。

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